どうしようかねぇ。

方向性の定まらない雑記帳

世界の必然性への抵抗

毎年夏になると思い返すことがある。

 

ぼくが高校生の頃。

ちょっと遅めの重度な厨二病を発症していたぼくは、

魔術書から哲学書(ニーチェを読みはじめたのもこの頃)、物理学の入門書など、

ありとあらゆる”カッコイイ”本を読んでいた。

 

特に当時のぼくの興味を惹いていたのは自由意志について。

(古典)物理学に関する本を読んでいると、世界はまるで必然に従って粛々と処理を進めていく一つの巨大な機械であるように思えた。

 

例えば、ビー玉を転がしてぶつける場合を考えてみる。

2つであれば、だいたい誰でもぶつかったあとのビー玉の軌跡をほぼ正確に予測できるだろう。

3つでも同じこと。4つ、5つと段々難しくなるものの、コンピュータを使えば難なくこなせるだろう。

 

では、いくつ集まったら予想がつかなくなるだろうか。

また、そこに存在するのは技術的な予想の不可能性だけなのだろうか。

 

ご存知の通り、ぼくらの身体は原子や分子というごくごく小さな粒で出来ている。

それぞれひと粒ひと粒には意志なんて持たないこの粒子、いったい幾つがどのように集まったら意志を持つようになるのか。そこには、果たして本当に「意志」なんてあるのだろうか。

 

ぼんやりとそんな事を頭の片隅で考えながら、ぼくは時々、夏休みの誰もいない通学路の上で、汗を流しながら全く意味もなく自分の両手足をばたつかせてみていた。*1

 

 

そんな滑稽なことをしつつも、当時既にその行動は自由意志があることもないことも証明し得ないことにもまた気が付いていた。

 

古典物理学の世界観が過去のものとなり、量子力学相対性理論が台頭してきたところで、やはり事態は変わらなかった。

ただ、物理世界を動かす機械仕掛けの中に、サイコロが仕組まれていることが分かっただけ。

 

サイコロを振っているのは果たして世界なのか、神なのか。

 

 

 

 

 

時が経ち、ぼくは徐々にそのことを考えなくなった。

正直に言えば、どちらでも良くなったのだ。

 

自由意志があろうとなかろうと、言い換えれば、ぼくの人生が決まっていようといまいと、どちらにせよそれはやはりぼくの人生なのだと思えるようになった。

 

例えば、もう放送を終えたアニメや、連載を終えた漫画を読むとき。

もう既にその作品は完結しているので、未来は完全に決まっている。既に敷かれたレールの上を寸分違わず進んでいく。

しかし、例え行く末が決まっていたとしても、ぼくは心を動かされたり、新鮮な感動を覚えたりする。初見ならばなおさら。

 

人生だって、それで良いじゃないかと思うようになった。*2

 

 

同時に、自分の中にひとつ許せないものが出来た。

それは、他者を操り自由意志を蔑ろにしようとする人間の行いだ。*3

 

この物理世界に自由意志が成り立ち得ない場合に人間自身が持っていると思っている「擬-自由意志」と、気付かないうちに他者によってなにかを選ばされている人間が持っている「偽-自由意志」との間には微妙にして決定的な断絶がある。そこを決して混同してはならない。

 

人間が神を騙る罪は重く、自由意志はその人の人生の重さを持つのだ。

 

 

だから、他者を操る方法論を説く(ことを標榜する)本や人間がだいきらいであるし、企業の中で行われる自由意志狩りが本来意味や価値とは一歩距離を置いて然るべき日常生活を侵食しつつあることには心底厭気が差している。

 

 

人が人として、自分の(擬-)自由意志を謳歌できる人間社会になることを願っている。

 

 

 

 

 ーーー☆ーーー☆ーーー

*1:この頃のぼくは、人間の行いは全て理性のもとに判断され、意味を持つものを選んでいくことが自由意志であるという、よく囚われがちな固定観念に縛られていたので、いま思い返すと理屈が混乱している。

 

*2:多分、これはニーチェの影響。自らの人生を愛し、人生の終わりに「よし、もう一度」と言える超人になりたかった。天空の論理を否定し大地の理に生きる超人と、究極の全肯定たる永劫回帰の理念を力強く説いた『ツァラトゥストラはかく語りき』はまさにツァラトゥストラ(明けの明星)の名に相応しい希望に溢れた傑作である。

 

*3:これより後の話は自由意志が存在するという前提である。自由意志が存在しないならば、他者の自由意志を簒奪することはできないし、無いものを盗んだ罪を問うことはできない。もちろん、自由意志の存在を否定できない以上、完全に無罪とも言い切れない。