ロシア風シモネタ 〜通訳家風味〜
最近、ロシア語通訳・翻訳者でエッセイストの米原万里にハマっている。
今年が没後10年目にあたる年で、文庫本コーナーで特集を組まれたりしているから、よく本屋さんに行く人は目にしているかも。
まだエッセイしか読んでいないのだけど、さすが通訳という言葉を操る職業の人だけあって文章は過不足がなくて分かりやすく、そしてとても読書欲をそそる名文を書く。
米原が書くエッセイの題材は、当時の政治の話や通訳という仕事の大変さと面白さの話(いわば大人の世界の話)から、小学生の時に父親(共産党幹部)の転勤でチェコに移り住んだときの話まで、とても幅が広い。
ゆかいな通訳仲間たちとのエピソードはテンポ良く次々と"ネタ"を繰り出してくるために、電車の中では読めなかったほど。
米原はその下ネタ(とおっちょこちょい)の才能を師匠に認められて「シモネッタ・ドッジ」という異名をつけられたものの、米原を上回る下ネタの使い手のイタリア語通訳に出会い、その異名を移譲。さらに、面白さのためなら話をモリモリに盛って話すことも厭わないスペイン語通訳に出会って「ガセネッタ・ダジャーレ」という異名を付ける。
ちなみに、シモネッタ・ドッジの異名を返上した彼女に付いたあだ名は「エカッテリーナ」。生前は闊達で饒舌で芯のある人柄だったことが伺える。
そんな米原の下ネタがどんなものだったかも本書に記されている。それは米原が日本の出版社から出すロシア語の教科書を執筆していたときのこと。日本で男性がモテるための3つの要素といえば、
・高身長
・高学歴
・高収入
といういわゆる"3高"だが、
ロシアでは
・頭に銀(ハゲてない壮年のシブさ)
・ポケットに金
・股ぐらに鋼鉄
という3つの金属になぞらえたものらしい。「股ぐらに鋼鉄」。もちろん、出版社から教科書に「股ぐらに鋼鉄」なんて載せられないとクレームを受ける。そこで、最初の2つは日本語訳も付けつつ最後の3つ目はロシア語原文だけを載せて「自分で調べてね」という形式に逃げたそうなのだが、教科書が出版されて店頭に出回り始めるや否や、読者から「股ぐらに鋼鉄という訳文をひねり出したのだがどう言う意味なのでしょうか」という手紙をたった2週間のうちに5通も受け取ってしまう。語学学習において、下ネタに勝る学習動機はそうそうないのである。
タイトルに"ネタ"感しかない本書だが、通訳に関する薀蓄や心構え、ロシア文豪たちに関する小話などが非常に豊富で、面白おかしく読み進めつつも知的欲求も満足させられる名作であった。
また、ちょっと前から書店で存在感を示し始めた元対ロシア外交官の佐藤優が編者となって米原万里のエッセイなどを集めた『偉くない「私」が一番自由』は米原自身を知る他者が選び抜いた作品を厳選しただけあって、米原の生前の人柄や生き方・考え方を鮮やかに浮かび上がらせるとても素敵な本であった。
この本には、米原が東京外大を卒業したときの卒業論文が収録されている。内容はロシア詩人ネクラーソフの生涯史についてで、没落貴族に生まれ、庶民の中に入っていくことで人々の生活に根差した感性を身に付けたネクラーソフが、ロシアの文壇の中で貴重な存在として活躍していく様を描いている。ネクラーソフの人々の生活を見つめる目線の温かさや実際性に深く共感していた米原自身の人間としての温かさをも感じさせるものであった。
本の紹介は以上。
普段は現代(現代語訳が必要とされない程度には最近の時代)のエッセイは殆ど読まず、もっぱらもはや"歴史上の人物"になってしまった人のものばかり読むぼくであるので、現代日本人の感性で書かれつつも作者本人が故人であるという読書体験が新鮮だった。
友人との会話であれば内容への共感は直接話し相手に向くし、"歴史上の人物"であればそもそも相手が実在したという手応えがないので対人間的な共感は湧きにくい。けれど、"生"の残り香のある故人に対する共感は、向ける相手不在のまま宙ぶらりんになってしまっているように感じていた。
そういう意味で、今回のこの記事は自分の中で生まれた米原万里という個/故人に向けた共感を供養するために書いたのかもしれない。
ともあれ、素敵な名エッセイばかりなので、エアコン効いた室内から出る気になれない休日に、せめて室内からでも異国情緒を味わいたいという方にオススメです。