【ネタバレ・考察】『シン・ゴジラ』ー現実と虚構の狭間でー
『シン・ゴジラ』を観ました。
あのねぇ……凄かったです……
当初は「ふーん、ゴジラね……庵野監督ね……」くらいにしか思ってなくて全く期待してなかったし、そもそもゴジラ作品観たことないしで興味の範囲外だったんですが、Twitterで良い反応をたくさん見て、気になったので観てきました。
うん、すごかった……
すごかったよ…………
以下、ネタバレありの感想・考察です。
観てない人は戻って!!!!!
(そして観たら戻ってきて!!!!!)
シコシコ書いていたらめちゃくちゃ長くなりそうだったので、テーマ別で何本かに分けて書きます。
今回は、なぜ、今、ゴジラなのか。
☆
『シン・ゴジラ』でのゴジラのモチーフについて、わざわざ書いてしまうこと自体が野暮なんですけど、これは疑う余地もなく東日本大震災なんですよね。
川の中を、船や桟橋などの残骸を多く含んだ洪水を起こしながら遡上していくゴジラ。
溢れた水を背に、必死に走って逃げ惑う人々。
ここ辺りの描写は、震災から5年が経った今でも津波のイメージをフラッシュバックしてしまって、とてもリアルに怖かった。
この時にぼくは思った。
「興味本位でヤバいものを観に来てしまったのでは……??」と。
さながら、軽い気持ちで心霊スポットに来たらガチモンの心霊現象に出くわしてしまったパンピーの気持ち。
そして、川から出たゴジラに蹂躙されていく東京の街。残された瓦礫の山。
ゴジラの一時撤退後に被災地に降り立った主人公が見た景色はまさに津波に蹂躙された東北の沿岸市街地そのものだった。
人類には全く抗えなかった、突然で圧倒的な破壊。
ゴジラによって無慈悲に破壊されていく東京の姿をスクリーン上で観る体験はまさに、あの震災の真っ只中でTV画面上に映し出される津波の圧倒的な破壊を目撃した経験であり、映画の中の架空の世界と現実とが接続された瞬間であった。
物語において、観客の視点を劇中の人物たちの目線の高さにどれほど近付けられ、観客の精神状態を劇中の人物たちとどれだけシンクロさせられるかどうかが観客の没入度を左右する最重要課題だが、『シン・ゴジラ』は観客の中にある現実の震災の記憶を軸にすることで極めて有効かつ鮮やかにこの課題をクリアする手法には、全身を何度も電流が駆け抜けるような感動を覚えた。
3.11後にTVで何度も繰り返して観た、たかだか300kmくらいの距離しかない、ぼくらの日常と完全に地続きの場所で現実に起きた、ウソみたいなあの震災の映像。
そんな"ウソみたいな"震災の記憶を手掛かりに、虚構でありながらまるで現実のようなザラザラした手で観客の心を掴んだ『シン・ゴジラ』。
現実感のない現実であった震災の記憶がシン・ゴジラの虚構に現実感を与えることで、逆説的にあの震災が現実のものであったことが浮き彫りになったように思う。
ポスターに書かれた「ニッポンvsゴジラ」と「現実vs虚構」の二つの対立。
だが実はこの対立しているように見えるこのふたつは、対立すると同時に互いを補完しあう存在でもあるように思う。
物語の終盤、主人公の矢口が「ゴジラと共存して生きていかなければならない」と言った。
地震・津波・原発のメタファーであるゴジラが東京のど真ん中に鎮座する世界。
そして、我々が生きるこの世界もまた、見ようと思えばいつだって我々の視界の端に常にゴジラの姿がある世界なのだ。
あの世界の人々はやがて、ゴジラがもたらした恐怖の生々しさやこの物理世界の理不尽さを徐々に忘れていき、凍結されたゴジラの姿はそのメタファーとしての意味を失っていくだろう。
『シン・ゴジラ』は震災から5年が経ち、震災当時のことが徐々に風化しているこのタイミングで、我々に、失われかけた荒ぶる神(≒理不尽な物理世界)としてのゴジラの姿を改めて提示してくれた。
今、『シン・ゴジラ』を観ることが出来て本当に良かった。
近々、2回目を観に行こうと思います。
世界を革命する力を手に入れるために
悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしかも知れぬ。
坂口安吾「悪妻論」『堕落論』(角川文庫)p.182
これから『少女革命ウテナ』を観た事がない人に向けて、どうしてウテナを観てほしいかを伝えたいと思っているのですが、次の項目に当てはまる人には特に声を大にして伝えたい。
・ジェンダーに縛られて生きることに嫌気が差している人
・「自分」というのがよく分からない人
・気高さを持って素直に生きたいと思ってる人
これらに1つでも当てはまる人には99.9998%の確率で刺さること請け合いなので、「あっ、私これだわ」って人は今すぐツタヤでDVDを借りに走るか、もしくはバンダイチャンネルに登録して課金してください。
『少女革命ウテナ』はもう20年も前の作品なのに、ストーリーが全く古びないどころか、現代日本社会との比較によってますます輝いて見える、物凄い作品なんです。
☆
主人公である天上ウテナは、「守られるお姫様じゃなくて、かっちょいい王子様になりたい女の子」である。
幼い頃に両親を亡くしたウテナは、旅の王子様との出会いによって救われ、王子様に憧れるあまり自分が王子様になることを決意した過去を持つ。
そんなウテナが中学2年生の時のお話。
ウテナはある日、親友が片想いをしている男から手酷い目に遭わされた現場に立ち会ってしまう。居ても立っても居られなくなったウテナは、その男(西園寺莢一、剣道部主将)に決闘を挑んでしまう。剣の道を極めんとする男よりも気高いウテナの"王子様性"が垣間見える。
決闘の会場として指定された場所に行くと、そこには西園寺と一人の女の子が。
ウテナは更に驚くべきことを知る。
西園寺を含めた生徒会メンバーが、決闘によってその女の子をやり取りしていたのだ。*1
そんな野蛮なことは絶対に許せないと、ますますヒートアップするウテナ。相手は剣道部主将。押され気味のウテナであったが、決闘の最中に突如ウテナに"王子様"が乗り移る。辛くも西園寺を下したウテナの元に、決闘によってやり取りされているという「薔薇の花嫁」を名乗る女の子が現れる。
ウテナと「薔薇の花嫁」の二人の寮生活が始まるのだが、そんな二人に次々と「薔薇の花嫁」を手に入れんとする生徒会メンバーが決闘を挑んでくる。
ウテナと薔薇の花嫁の運命や如何に。
という筋書きである。*2
従順で常に自己を殺し続けている一人の女の子を巡って女の子の意思とは関係なく奪い合う男たち(実は生徒会メンバーには女性もいるのだが)から女の子を守り抜こうとするウテナ。*3
ウテナは同時に、女の子の心を開いて自己を持った一人の人間として振舞ってほしいと、女の子自身に何度も何度も何度も伝えるのだけど、なかなか届かない。
自分を殺し続けてしまった人間に、自分を取り戻させようとするのはめちゃくちゃ辛い。助ける側も、助けられる側も。だって、自分を持つことがあまりにも辛いから自分を殺すことを選んだ訳だから、自分を取り戻すことは即ち自分を殺すことを決意させた痛みをも取り戻すことになるのだ。
また、メインの脚本家である榎戸洋司は、ある番組のインタビューでこのようなことを言っていた。
「女の子には主に二つの道しかない。一つはお姫様になる道。そして、お姫様になれなかった女の子には魔女になる道しかない。」
お姫様ではなく、魔女でもなく、王子様になる道を選んだウテナ。
自分を殺してしまった「薔薇の花嫁」アンシー。
ウテナとアンシーが引き合い、反発しあいながらどのような救済を迎えるのか。
是非、アニメ本編を観て!!!!!
そして観るときは是非ツイッターで実況して、あなたの世界が革命されていく様子を観察させてください。
ーー☆ーー☆ーー
*1:この辺りの設定、イヴ・セジウィックの「ホモソーシャル」の概念を知っている人にはゾクゾクくるのでは。
*2:なお、かなりの部分を端折って書いたのだが、直前3段落分がほぼ第1話の筋書きである。お気付きの通り、一話一話の内容がめちゃくちゃ濃い。濃いのだが、ほぼ一話完結型なのでサクサク観れてしまう。全39話、観始めてしまえば最初に思っていたよりもすぐに観終わってしまうこと請け合いである。
*3:この設定、『マッド・マックス 怒りのデスロード』のフューリオサそのものじゃないですか。(マッド・マックスは実質ウテナ)
世界の必然性への抵抗
毎年夏になると思い返すことがある。
ぼくが高校生の頃。
ちょっと遅めの重度な厨二病を発症していたぼくは、
魔術書から哲学書(ニーチェを読みはじめたのもこの頃)、物理学の入門書など、
ありとあらゆる”カッコイイ”本を読んでいた。
特に当時のぼくの興味を惹いていたのは自由意志について。
(古典)物理学に関する本を読んでいると、世界はまるで必然に従って粛々と処理を進めていく一つの巨大な機械であるように思えた。
例えば、ビー玉を転がしてぶつける場合を考えてみる。
2つであれば、だいたい誰でもぶつかったあとのビー玉の軌跡をほぼ正確に予測できるだろう。
3つでも同じこと。4つ、5つと段々難しくなるものの、コンピュータを使えば難なくこなせるだろう。
では、いくつ集まったら予想がつかなくなるだろうか。
また、そこに存在するのは技術的な予想の不可能性だけなのだろうか。
ご存知の通り、ぼくらの身体は原子や分子というごくごく小さな粒で出来ている。
それぞれひと粒ひと粒には意志なんて持たないこの粒子、いったい幾つがどのように集まったら意志を持つようになるのか。そこには、果たして本当に「意志」なんてあるのだろうか。
ぼんやりとそんな事を頭の片隅で考えながら、ぼくは時々、夏休みの誰もいない通学路の上で、汗を流しながら全く意味もなく自分の両手足をばたつかせてみていた。*1
そんな滑稽なことをしつつも、当時既にその行動は自由意志があることもないことも証明し得ないことにもまた気が付いていた。
古典物理学の世界観が過去のものとなり、量子力学や相対性理論が台頭してきたところで、やはり事態は変わらなかった。
ただ、物理世界を動かす機械仕掛けの中に、サイコロが仕組まれていることが分かっただけ。
サイコロを振っているのは果たして世界なのか、神なのか。
時が経ち、ぼくは徐々にそのことを考えなくなった。
正直に言えば、どちらでも良くなったのだ。
自由意志があろうとなかろうと、言い換えれば、ぼくの人生が決まっていようといまいと、どちらにせよそれはやはりぼくの人生なのだと思えるようになった。
例えば、もう放送を終えたアニメや、連載を終えた漫画を読むとき。
もう既にその作品は完結しているので、未来は完全に決まっている。既に敷かれたレールの上を寸分違わず進んでいく。
しかし、例え行く末が決まっていたとしても、ぼくは心を動かされたり、新鮮な感動を覚えたりする。初見ならばなおさら。
人生だって、それで良いじゃないかと思うようになった。*2
同時に、自分の中にひとつ許せないものが出来た。
それは、他者を操り自由意志を蔑ろにしようとする人間の行いだ。*3
この物理世界に自由意志が成り立ち得ない場合に人間自身が持っていると思っている「擬-自由意志」と、気付かないうちに他者によってなにかを選ばされている人間が持っている「偽-自由意志」との間には微妙にして決定的な断絶がある。そこを決して混同してはならない。
人間が神を騙る罪は重く、自由意志はその人の人生の重さを持つのだ。
だから、他者を操る方法論を説く(ことを標榜する)本や人間がだいきらいであるし、企業の中で行われる自由意志狩りが本来意味や価値とは一歩距離を置いて然るべき日常生活を侵食しつつあることには心底厭気が差している。
人が人として、自分の(擬-)自由意志を謳歌できる人間社会になることを願っている。
ーーー☆ーーー☆ーーー
*1:この頃のぼくは、人間の行いは全て理性のもとに判断され、意味を持つものを選んでいくことが自由意志であるという、よく囚われがちな固定観念に縛られていたので、いま思い返すと理屈が混乱している。
*2:多分、これはニーチェの影響。自らの人生を愛し、人生の終わりに「よし、もう一度」と言える超人になりたかった。天空の論理を否定し大地の理に生きる超人と、究極の全肯定たる永劫回帰の理念を力強く説いた『ツァラトゥストラはかく語りき』はまさにツァラトゥストラ(明けの明星)の名に相応しい希望に溢れた傑作である。
*3:これより後の話は自由意志が存在するという前提である。自由意志が存在しないならば、他者の自由意志を簒奪することはできないし、無いものを盗んだ罪を問うことはできない。もちろん、自由意志の存在を否定できない以上、完全に無罪とも言い切れない。
ロシア風シモネタ 〜通訳家風味〜
最近、ロシア語通訳・翻訳者でエッセイストの米原万里にハマっている。
今年が没後10年目にあたる年で、文庫本コーナーで特集を組まれたりしているから、よく本屋さんに行く人は目にしているかも。
まだエッセイしか読んでいないのだけど、さすが通訳という言葉を操る職業の人だけあって文章は過不足がなくて分かりやすく、そしてとても読書欲をそそる名文を書く。
米原が書くエッセイの題材は、当時の政治の話や通訳という仕事の大変さと面白さの話(いわば大人の世界の話)から、小学生の時に父親(共産党幹部)の転勤でチェコに移り住んだときの話まで、とても幅が広い。
ゆかいな通訳仲間たちとのエピソードはテンポ良く次々と"ネタ"を繰り出してくるために、電車の中では読めなかったほど。
米原はその下ネタ(とおっちょこちょい)の才能を師匠に認められて「シモネッタ・ドッジ」という異名をつけられたものの、米原を上回る下ネタの使い手のイタリア語通訳に出会い、その異名を移譲。さらに、面白さのためなら話をモリモリに盛って話すことも厭わないスペイン語通訳に出会って「ガセネッタ・ダジャーレ」という異名を付ける。
ちなみに、シモネッタ・ドッジの異名を返上した彼女に付いたあだ名は「エカッテリーナ」。生前は闊達で饒舌で芯のある人柄だったことが伺える。
そんな米原の下ネタがどんなものだったかも本書に記されている。それは米原が日本の出版社から出すロシア語の教科書を執筆していたときのこと。日本で男性がモテるための3つの要素といえば、
・高身長
・高学歴
・高収入
といういわゆる"3高"だが、
ロシアでは
・頭に銀(ハゲてない壮年のシブさ)
・ポケットに金
・股ぐらに鋼鉄
という3つの金属になぞらえたものらしい。「股ぐらに鋼鉄」。もちろん、出版社から教科書に「股ぐらに鋼鉄」なんて載せられないとクレームを受ける。そこで、最初の2つは日本語訳も付けつつ最後の3つ目はロシア語原文だけを載せて「自分で調べてね」という形式に逃げたそうなのだが、教科書が出版されて店頭に出回り始めるや否や、読者から「股ぐらに鋼鉄という訳文をひねり出したのだがどう言う意味なのでしょうか」という手紙をたった2週間のうちに5通も受け取ってしまう。語学学習において、下ネタに勝る学習動機はそうそうないのである。
タイトルに"ネタ"感しかない本書だが、通訳に関する薀蓄や心構え、ロシア文豪たちに関する小話などが非常に豊富で、面白おかしく読み進めつつも知的欲求も満足させられる名作であった。
また、ちょっと前から書店で存在感を示し始めた元対ロシア外交官の佐藤優が編者となって米原万里のエッセイなどを集めた『偉くない「私」が一番自由』は米原自身を知る他者が選び抜いた作品を厳選しただけあって、米原の生前の人柄や生き方・考え方を鮮やかに浮かび上がらせるとても素敵な本であった。
この本には、米原が東京外大を卒業したときの卒業論文が収録されている。内容はロシア詩人ネクラーソフの生涯史についてで、没落貴族に生まれ、庶民の中に入っていくことで人々の生活に根差した感性を身に付けたネクラーソフが、ロシアの文壇の中で貴重な存在として活躍していく様を描いている。ネクラーソフの人々の生活を見つめる目線の温かさや実際性に深く共感していた米原自身の人間としての温かさをも感じさせるものであった。
本の紹介は以上。
普段は現代(現代語訳が必要とされない程度には最近の時代)のエッセイは殆ど読まず、もっぱらもはや"歴史上の人物"になってしまった人のものばかり読むぼくであるので、現代日本人の感性で書かれつつも作者本人が故人であるという読書体験が新鮮だった。
友人との会話であれば内容への共感は直接話し相手に向くし、"歴史上の人物"であればそもそも相手が実在したという手応えがないので対人間的な共感は湧きにくい。けれど、"生"の残り香のある故人に対する共感は、向ける相手不在のまま宙ぶらりんになってしまっているように感じていた。
そういう意味で、今回のこの記事は自分の中で生まれた米原万里という個/故人に向けた共感を供養するために書いたのかもしれない。
ともあれ、素敵な名エッセイばかりなので、エアコン効いた室内から出る気になれない休日に、せめて室内からでも異国情緒を味わいたいという方にオススメです。